日本人の宗教心 はじめに


 ご自分の宗教はなんですかと聞けば、たいていの人は「無宗教」と答えるでしょう。 しかし、宗教は私たちの生活に密接にかかわりがありそうです。お正月には神社に初詣に行き、人が亡くなれば仏式に限らず葬送儀礼は必ず行われます。誕生に関しては、お宮参り、七五三等、宗教的な通過儀礼を行います。

 はたして一般的な日本人は、「自分は無宗教」と答えるように、宗教とは無縁なのでしょうか。
 日本の心の中には、様々な宗教が混在しています。神道・仏教は言うに及ばず、中国の宗教、キリスト教までが、何のためらいもなく心の中に共存しています。自分自身の宗教観をあらためて考えてみると、これら雑多ともいえる諸宗教の入り混じった心のうちを、
「あやふやな宗教観」「取り留めのない宗教観」「曖昧模糊とした宗教心」と評価し、その雑多性ゆえに自分の宗教を一つに絞ることができず、「無宗教」「無信仰」という言葉に帰着してしまうようです。

 人の「生死」の場面には例外なく宗教的な儀礼を必要とし、また日常の生活の中にも何度となく宗教儀礼に出くわします。これらの「出来事」を「日本人の単なる習俗・習慣であり、宗教とはいえない」と理解し、宗教とは違うもの、あるいは宗教とは次元の異なるものであるとするのが一般的な理解のようです。

 しかし、人が生まれた時、あるいは成長の節目ごとに、子供の健やかなる成長を願う感情、また、自分が現在存在していることにご先祖様に感謝する心、いつまでも見守っていてほしいと願う気持ち、大いなる自然に対する畏怖心、これらすべて見えない存在に対する宗教心ではないでしょうか。

 この日本人の持つ大切な宗教心を無意識に否定してしまうのは、礼拝・祈願の対象があまりにも広く多いことに起因するでしょう。豊かとも形容されうる自身の宗教心は捉え難く、一神教と対比すると、礼拝対象も定まらず、何に対する畏怖心なのかが整理できず、その結果「無宗教」であると感じてしまいます。

日本人の宗教心

日本人の一般的な通過儀礼・宗教儀礼


日本人の行う一般的な通過儀礼、宗教儀礼をまとめてみましたが、まだまだたくさん宗教心を伴った行事はたくさんあるでしょう。言うまでもなく、これらの諸行事は、日本人であれば誰でも、何のためらいもなく行っているものです。

 ◇お宮参り   神社

 ◇七五三    神社

 ◇初詣     神社  お寺

 ◇結婚式    キリスト教  神式  仏式

 ◇葬式     仏式  神式  キリスト教

 ◇年忌     仏教  神道

 ◇お墓参り   お寺

 ◇お祭り    神社  お寺  地域の鎮守の神様の場合が多い

 ◇縁日     お寺  神社  仏様などにちなむ日、

            4のつく日は地蔵、 21日は弘法、 28日は不動 など

 ◇お盆 お彼岸  お寺

 ◇クリスマス  一般的な日本人のクリスマスに神はいない お祭りだけ

 山を歩けば、そこにたたずむお地蔵様に道中安全を願い手を合わせ,

  神社があればやはり同じく手を合わせる。

 各家庭には、仏壇と神棚があるのが一般的。

 各職業によって、関係ある神を祭り、信仰し、事故のないように祈願する

 

創唱宗教と自然宗教  
阿満利麿「日本人はなぜ無宗教か」より

 創唱宗教と自然宗教

 宗教を創唱宗教と自然宗教に分ける考え方があります
 ◆創唱宗教とは、ある特定の教祖がいて、よりどころとなる教典があり
  
それを信じる教団がある宗教を言います。

 ◆自然宗教とは、、いつ、誰によって始められたか分からない、自然発
  生的な
宗教という意味です。

◆宗教をめぐる様々な混乱や誤解は、「創唱宗教」と「自然宗教」の区別を採用しないところから生じているように思われる。(p.11)

◆我々が容易に「無宗教」を口にする原因のひとつに、風俗や習慣となってしまった宗教は「宗教」でないという思い込みがあるようだ。それは、宗教といえば必ず教祖や教団がなければならないという思い込みと軌を一にしている現象といえよう。(p.17)

◆では「自然宗教」とは何か。ご先祖様を大切にする気持ちや村の鎮守に対する敬虔な心がそうなのである。そこでは、人は死ねば一定期間子孫の祭祀を受けることでご先祖様になることが信じられているし、その後、ご先祖様はやがて村の神様ともなり、時には孫子ともなって生まれ変わることもできる。(p.15)


◆「無宗教」だという人の中には、宗教が恐ろしいから宗教に近づかないようにしているという人が少なくない。(p.25)

◆もちろんここで言う宗教は、ほとんどが「自然宗教」というよりも「創唱宗教」に属する。特定の教祖や教義、教団が怖いのである。ご先祖様や氏神様が怖いということはない。

創唱宗教    教祖・教典・教団がある

自然宗教   いつ誰によってはじめられたか分からない。自然発生的宗教。

日本人の心の展開図



日本人の持つ宗教心の、心の展開図を想像してみました。
心の中は、当然一人一人大きく違うので、無謀な作図とは承知ですが、
今私の感じる、一般的な日本人の、宗教から見る心の展開図を作成してみました。

真ん中の円が日本人の心で、多くの宗教の楕円が取り巻きます。重なる部分が日本人の心の中に入り込んでいるという意味を示します。

日本人の根底には
根っこの宗教として、祖先崇拝・先祖供養があります。
この根っこの宗教を土台(真ん中の円)として、そのなかに、お宮参りや七五三や初詣などの神道に関する気持ちが含まれます。
親を敬い目上を敬う気持ちは、儒教と合致したのでしょう(政治的にはまた別でしょうが)。
十干十二支や占い・風水といったものも、日本人の心を捉えています。

仏教に関しては、葬儀や、法事・護摩祈願といった、
「儀礼的」「儀式的」な要素が入り込んでいますが、仏教全体の教えとしてはほんの端に過ぎません。
日本人の心の円と、仏教の円が重なっている部分が、一般的な日本人の感じる仏教です。

そして、多くの宗教を取り込んだ円が、
日本教と呼ばれます。
ですから、私たちは、
日本教の信者なのではないでしょうか。


あなたの宗教は何ですか?と質問された時の心の流れ。




「あなたの宗教は何ですか」と質問されたら、少し考えてから、「無宗教です」と答えるでしょう。
「無宗教です」と答えたその背景には、特定の宗派などをを思い浮かべながら、少なくともそれらの宗教には属していないということで、「無宗教です」と答えていると思います。

しかしもう一度自分の心を整理してみると、
ご先祖様を大切にする気持ち、村の鎮守の神様を大切にする気持ち、溢れる身の回りの宗教的な行事に気づくのではないでしょうか。

実は、熱心な自然発生的な宗教、神道であるとか祖先崇拝の熱心な信者ではないでしょうか?

このような私たちの、先祖供養を根っことして、様々な宗教心を合わせ持ち、隣の神を認めることのできる、豊かでおおらかな宗教のことを
日本教と呼ぶ場合があります。

心のわだかまり 日本人の宗教心 日本人の宗教観

自分自身の宗教心を考えた場合、本山で二年間修行し、仏教にどっぷりと浸かっているはずでなのですが、子供が生まれてから、
お宮参りをはじめとして、七五三等の儀礼を行い、地元の神社に子供の健やかなる成長を祈りました。日本人として、神社の神様にお参りすることは当然と思ったのです。

しかし、
僧侶という立場に何の躊躇もなかったわけではありませんでした。
自分自身の心の中で、宗教心のあやふやさ、曖昧さが整理できないでいました。

私が生まれた所はお寺なのですが、
家(庫裏)の中には神棚があり、お正月には神道式の拝礼をしています。おそらく代々お祭りしているものと思います。
友人の結婚式に呼ばれた時、
キリスト教の式だったため一瞬躊躇しましたが、キリスト教の神様が二人を守ってくださるのであればアーメンということができる、などと感じたのでした。(尤も、キリスト教側からすれば、信者でもない人にアーメンなどどいってほしくないのかもしれませんが・・・)

このように、自分自身の中に、宗教的なわだかまりがありました。勉強会やおはなし会などを通じ、私の思う日本人の宗教心をまとめることができ、ほっとしています。この作業は自分自身への問いかけでもあったからです。

キーワードは、
無宗教、根っこの宗教、先祖崇拝、創唱宗教、自然宗教、日本教

阿満利麿氏は、著書「日本人はなぜ無宗教か」の中で、日本人が、様々な宗教を心の中に持ちながら整理できず、混乱してしまう原因の一つに、「創唱宗教」と「自然宗教」の区別をつけなかったところにあると指摘しています。

「創唱宗教」とは、特定の教祖と、教典と、教団がある宗教のことで、「自然宗教」とは、いつ誰がはじめたのか分からない宗教のことで、自然発生的な宗教であるとします。神道や祖先崇拝に当たるでしょう。

私たちが、「宗教」という言葉に、まず最初にイメージするのは、教祖・教典・教団のそろった「創唱宗教」でしょう。

創唱宗教と自然宗教

根っこの宗教


 日本人の宗教心には、ご先祖様を大切に思う気持ちである祖先崇拝が根底にあります。この気持ちの上に、様々な宗教感覚が入り込みます。 この先祖供養の気持ちを、日本人の
根っこの宗教と呼ぶ学者もいます。

 お彼岸の期間に、お墓参りをしお花やお線香を立てご先祖様を供養する気持ちや、各家々にはお仏壇があり、毎日お茶やご飯などを供える気持ちが祖先崇拝です。

 ご先祖さまあって、初めて今自分がここにいるということを感謝し確認する、日本人の心の根底にある大切な宗教心です。子供が生まれた時や、人生の節目を迎えた時、お仏壇やお墓のご先祖様に報告することも、ご先祖様に対する感謝と見守っていてほしいと願う根っこの宗教心です。

日本人の仏教観


 日本の仏教といえば、まず最初に頭に浮かぶのが、お葬式・法事やお墓でしょう。塔婆、お盆なども身近です。さらには、仏像やお経、お寺、巡礼、写経、護摩、祈願なども思い浮かべると思います。仏教として思い浮かべる事柄のほとんどは、儀式や形を中心とした「儀礼的」「現世利益的」な仏教といえます。

 現在、日本で行われている仏教は、仏教本来の姿のほんの一部でしかありません。「日本人の心」と重なっている部分は、葬儀・年忌・祈願等、仏教の持つ「儀礼的」「現世利益的」な要素です。この部分を、「葬式仏教」と呼ぶのでしょう。 もちろん、本来の仏教の持つ「生きる仏教」に魅力を感じる人も大勢いることでしょう。

 「仏教本来の姿」とは、釈迦の求めた「悟り」にいたるため、三学(戒・定・慧)を学ぶことです。

上記のようにみますと、日本人の宗教心は取り留めのないように思えますが、次の「創唱宗教」と「自然宗教」の区別を知ると、一気に整理が付きます。


普通の会話はここで終わります

私たちが、「無宗教です」と答えてしまうのは、それは無宗教 イコール 創唱宗教の否定であることが大きな要因であると思います。さらに、一神教と比較して、宗教心はありながらも何に対して祈願・礼拝しているかが定まらず、その結果「無宗教です」という言葉に落ち着いてしまうようです。

しかし、みてきたように、日本人の宗教心は、
先祖供養を根っこの宗教として、そこに様々な宗教を合わせ持ち、隣の神を認めることのできる豊かでおおらかな宗教心であるといえます。

言うまでもなく、欧米などで言う「無宗教」「無神論」とはまったく次元を異にしています。

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一般的日本人の仏教観