更なる分派
根本分裂
紀元前後
インド仏教の流れでは
大乗仏教は新興宗教
だったのです。
紀元前後 大乗仏教運動
在家信者による、仏教復興運動とも
インド仏教の
主流の流れ
主流派
そうなんです。
表題にあるとおり、最近では「小乗仏教」という言葉は使わないようになってきました。
それは、「小乗仏教」という言葉が、「大乗仏教」側から見た、差別的、侮蔑的な貶称(へんしょう)に過ぎないからです。
ですから、現在の学会や全体会議などでは、この言葉を使用しません。
この呼称の代わりにその、南方に伝わった仏教ですので、「南方仏教」であるとか、「南伝仏教」などという言葉を使います。また、インド本国の上座部という宗派が伝わったので、「上座部仏教」という言い方もします。
それに対して、「大乗仏教」は、北方に伝わった仏教なので、「北方仏教」「北伝仏教」などと言われます。自分たちでつけた名前なので、「大乗仏教(大きな乗り物の仏教の意味)」という言葉は使い続けています。
ここで大乗仏教と上座仏教(南伝仏教)の歴史をかんたんに整理してみます。
実は、南に伝わる仏教のほうが歴史は長く、インド本国では常に大きな教団だったのです。
お釈迦様が亡くなってから後、しばらくは分派はなかったようですが、保守的な上座部(長老派)と、進歩的な大衆部に分かれたそうです。これを「根本分裂」といいます。
根本分裂後、さらに分派が繰り返されたようです。
この分派により、多数できた宗派をひとまとめに「部派仏教(ぶはぶっきょう)」と呼び習わしています。
この「部派仏教」こそが、インドの仏教の主流派だったわけです。
後に、紀元前後、その部派仏教に対する強烈な批判から、「大乗仏教」が起こってきます。これを「大乗仏教運動」と呼ぶ場合もあります。
ここで、大乗仏教運動を起こした人々は、どのような人だったのかという疑問が浮かびますが、はっきりとは分からないようです。部派仏教側の進歩グループであった大衆部が発展したものだとか言われますが、仏塔を信仰していた在家信者たちが起こした仏教新興運動であったとされます。
なぜ、北伝仏教(大乗)側は、それまでの仏教(上座仏教・部派仏教)を、侮蔑したのでしょうか。
そこには、一つの批判がありました。
中国、韓国、日本、など
北方に伝わる。ベトナムにも伝わる
スリランカ経由、南方諸国へ
◇仏教教団分裂の様子
約100年
上座部
大衆部
枝末分裂
◇枝末分裂
仏滅後、上座部と大衆部に分かれた仏教教団は、さらに分派を繰り返します。
この時代の仏教を、部派仏教といいます。
犢子部
法
上
部
賢
冑
部
密
林
山
部
飲
光
部
経
量
部
法
蔵
部
化
他
部
説一切有部
雪
山
部
上座部
多聞部
説仮部
制多山部
西山住部
北山住部
一説部
説出世部
鶏
胤部
大衆部
これらの分派が、今日どうして分かるのかなあと私自身不思議に思っていた時があったのですが、
現在にも伝わる分派の歴史書というものがあったのです。
この分派史の資料として、北伝では『異部宗輪論』、南伝では『ディーパヴァンサ』などがあります。
これらの資料間で、いくぶん説を異にするようです。
『異部宗輪論』(玄奘訳)とは、説一切有部の立場から、小乗仏教諸派の分裂を記した歴史書です。サンスクリット原本は現存していません。本文は教団史と教理史に分かれ、教団史は根本二部の分裂から始めて両系統の分派を詳しく述べて、いわゆる「根本二部枝末十八部」を記します。