お釈迦さまのご生涯

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4月8日

 お釈迦様は、今からおよそ2500年前に、インド北部・ヒマラヤ山脈のふもとルンビニーの園でお生まれになりました。

お釈迦さまの父・浄飯王(シュッドーダナ)は、釈迦族という一族の王様でしたので、お釈迦様は、その国を継ぐべき皇太子としてお生まれになりました。母はマーヤ夫人といい、お釈迦様が生まれて、一週間ののちにお亡くなりになりました。

 お釈迦様は、幼名をゴータマ・シッダールタといいます。「ゴー」は牛を意味し、「タマ」はすぐれたことを意味します。「シッダ」は成就(じょうじゅ)、「アルタ」は目的を、それぞれ意味します。

 お釈迦様は誕生されたのち、七歩歩んで「天上天下唯我独尊」と唱えました。「天にも地にも我一人のみが尊い」という意味です。

 
 
  16歳

16歳で、ヤショーダラ姫と結婚しました。のちにラーフラを授かりました。

誕生
結婚
出家
悟り
布教
初めての説法
涅槃

鹿野園(ろくやおん・サールナート)で、はじめて説法を行いました。説法の相手は、苦行時代に一緒に修行に励んだかつての5人の仲間でした。ここにはじめての仏教教団(サンガ)が誕生したのです。

 


  29歳

 やがて王位を継ぐはずのお釈迦様でありましたが、妻子を残し出家しました。

 出家の動機は、「四門出遊(しもんしゅつゆう)」と伝えられます。まず、東の門において老人の姿を見、次いで、南の門において病人の姿を見、西の門において死人を見、最後に北の門において修行僧の姿を見て出家を決意したと伝えられます。




  
 12月8日
 35歳

 出家して六年間、身を苦しめ、心を苦しめ、修行に励みましたが、悟りは得られませんでした。苦行では本当の悟りは得られないと知り、一緒に修行していた修行僧の仲間からはずれ、村娘のスジャータの差し出す乳粥の施しを受け、一人ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想を続けました。

 12月8日、明けの明星の輝くころ、ついに悟りを開かれました。お釈迦様35歳のときでした。

悟りを開いたお釈迦様は、最初説法を行いませんでした。自分の悟りの内容は難解で、普通の人には理解できないと考えたからです。

しかし、梵天の懇願により説法を決意されたと伝えられます。これを「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」といいます。

そして、インド各地を布教して回り、信者も増え、十大弟子といわれる立派な僧も出ました。お釈迦様は、いかなる職業や階級の人にも平等に生き方を説いて回りました。




 2月15日

 
80歳

そして、80歳になった時、クシナガラの沙羅双樹のもとに床を作り、北枕で西向きに身を横たえられました。

 そして、2月15日、弟子を集め、最後の言葉を残しました。

「修行者たちよ、汝らに告げる。もろもろの事柄はうつろい行く。怠らず努めや。」


お釈迦様 誕生の物語
『仏教聖典』より
 (2ページ〜3ページ)

一、
ヒマラヤ山の南のふもとを流れるローヒーニー河のほとりに、釈迦族の都カピラヴァスツがあった。その王シュッドーダナ(浄飯)は、そこに城を築き、善政をしき、民衆は喜び従っていた。王の姓はゴータマであった。


妃(きさき)マーヤ(摩耶)婦人は同じ釈迦族の一族で、コーリヤ族と呼ばれるデーヴァダハ城の妃で、王の従妹(いとこ)にあたっていた。

結婚の後、長く子に恵まれず、二十幾年の歳月の後、ある夜、白象が右わきから体内に入る夢を見て懐妊した。王の一族をはじめ国民等しく指折り数えて王子の出生を待ちわびたが、臨月近く、妃は国の習慣に従って生家に帰ろうとし、その途中ルンビニー園に休息した。

折からの春の陽(ひ)はうららかに、アショーカの花はうるわしく咲きにおっていた。妃は右手を上げてその枝を手折ろうとし、そのせつなに王子を生んだ。天地は喜びの声を上げて母と子とを祝福した。ときに四月八日であった。

シュッドーダナ王の喜びはたとえようがなく、一切の願いが成就したという意味のシッダールタ(悉逹多)という名を王子に与えた。



二、
しかし、喜びの裏には悲しみもあった。マーヤー婦人はまもなくこの世を去り、太子は以後、婦人の妹マハープラジャーパティーによって養育された。

そのころアシタという名前の仙人が山で修行をしていたが、城のあたりに漂う吉相を見て、城に来たり、太子を見て「このお子が長じて家にいられたなら世界を統一する偉大な王となり、もしまた出家して道を修めれば世を救う仏になられるであろう。」と予言した。



それはまことに激しい苦行であった。釈尊自ら「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした物はなく、また、これからもないであろう。」と後に言われたほど、世にもまれな苦行であった。



しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。そこで太子は、六年の長きにわたったこの苦行を未練なく投げ捨てた。ナイランジャナー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャータという娘の手から乳粥を受けて健康を回復した。

このとき、それまで太子と一緒に同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去っていった。

いまや天地の間に太子はただ一人となった。太子は静かに木の下に座って、命をかけて最後の瞑想に入った。「血も涸(か)れよ、肉も爛(ただ)れよ、骨も腐れよ。さとりを得るまでは、私はこの座を立たないであろう。」これがそのときの太子の決心であった。

その日の太子の心はまことにたとえるものがないほど悪戦苦闘であった。乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。太子は心のすみずみまでそれらを追求して散々に裂き破った。まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの悪戦苦闘であった。

しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏となった。それは太子三十五歳の十二月八日の朝のことであった。



これより太子は仏陀、無上覚者(むじょうかくしゃ)、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊などの種々の名で知られるようになった。

釈尊はまず、六年にわたる苦行の間ともに修行してくれた恩義ある五人の出家者に道を説こうとして、彼らの住むヴァーラーナーシーのムガダーヴァ(鹿野園)に赴き、彼らを教化した。彼らは最初釈尊を避けようとしたが、教えを聞いてから釈尊を信じ最初の弟子となった。



またラージャグリハ(王舎城)に入ってビンビサーラ王を教化し、ここを教えを説く根拠地としてさかんに教えを広めた。
中略